旅のしおり
プロフィール

Author:シュンちゃん
還暦。思えば遠くに来たもんだ。人の命はいつか必ず果てる。生きる軸足である山のほか、本にしおり挟むよに、趣くまま時折生きし証ここにつづる。齢ゆく者のボケ防止備忘録ブログです。適当におつきあいください。
   since 2008(H20) 8.28 



リンク

このブログをリンクに追加する



カレンダー

09 | 2017/10 | 11
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 - - - -



カテゴリ



最新記事



月別アーカイブ



読了 「小説 日本婦道記」 – 2017.6.22(木)

小説 日本婦道記 - 20170622(木)

山本周五郎 「日本婦道記」 読了。 
十一の短篇からなる。 周五郎初期の作品。 
ともすればおいおい婦道記などとは、
女ばかりにあるべき道説くのかい、と女性団体からクレームきそうですが、
日本人女性の美しさ紡ぐものがたりの数々、
日本人が忘れ去ろうとしているものを思い出させてくれる、
かつての日本人が持っていた道徳観、心の内側みごとに描く名作でした。
文句なし!これを読まずして周五郎は語れない、な一冊でしょう。
そして表紙もステキ、お気に入りのひとつです。

話しはどれも私の好むものでしたが、
「松の花」 「梅咲きぬ」 「不断草」に 「糸車」 「風鈴」 「桃の井戸」 「墨丸」 「二十三年」
は良かったです。 取り分け 「糸車」 「二十三年」は涙で文字がにじみました。

以下いつもながらなだらだら個人メモ、私的備忘録。
、、、よほど興味のある方以外、長すぎるので危険、、、ご用心くだされ、
-----------------------------------------------------------------

〇 松の花
紀州徳川家年寄役、千石の食禄をとる佐野藤右衛門が妻、やす。
「武家の奥はどのようにつつましくとも恥にはならぬが、身分相応の御奉公をするためには、
つねに千石千両の貯蓄を欠かしてはならぬ」と常日頃から。
着るものだけではなく身の回りのことすべてにつつましかった。
着るものは、家に仕えるしもべの者たちに分け与え自分は粗末なものを身に着けていた。
やす死してしもべたちの悲しみ様と粗末な身の回り品そして荒れた手に触れ、
藤右衛門は初めて妻の偉大さを知る。このような節婦を忘れてはならぬと。

〇 箭竹
岡崎の水野けんもつ忠義の家臣茅野百記が妻、みよ。
奉公中に生害した夫がし残した御奉公をつぐなうべく励む。
妻としての一生のつとめと。
十年ふたいてんの心を持ち続けることは難しい。

〇 梅咲きぬ
多賀直輝の、隠居の身の母かな女。
身分の低い家に生まれ、前田家の重職の家柄である多賀家に十六で嫁ぎ、
二千石の家政をとりしきってきた、今は隠居の身の母かな女。
家政をとるいとまに、老職の家の妻として恥ずかしからぬよう、またとかく
狭量になりやすい女の気持ちを広くするため教養として芸を身につけたいと、
茶の湯、笛、鼓、連歌、詩、絵と芸ごと習い、
そのいくつかにおいてはすぐれた才分をあらわし
その道の師たちを驚かせたものであったが、どの一つもついに奥を極めることなく
やめてしまった。 才がありながらその飽きやすい気質を惜しまれた。
良人多賀三郎左衛門さえも時折移り気なことだと苦々しげに云った。
多賀家に嫁して三年、直輝の妻が加代。
鼓を習うが、半年ほどしてかな女からもうやめたらどうか次は茶の湯などどうかと云われる。
半年ほどするとまた、今度は和歌を習うようにと。めきめき上達し允可がさがるところまで。
一方、加代は二千石の家政のきりまわしについても、姑の指導を守りよく働いた。
そんな折、奥まで極めたいと思っている和歌をやめろとかな女から言われ落ち込む。
ある日、かな女が加代にいう。
わたくしが芸事を次々に変えたのは移り気からだとお思いになりますかと。
武家の家の妻は、家政のきりもり怠りなく良人に仕え貞操なればそれで婦のつとめ果たした
と思うかもしれないが、それはかたちの上にすぎない。本当に大切なものはほかにある。
それは心。良人につかえ家を守ることのほかには、塵もとどめぬ妻の心だと。
学問諸芸はそれぞれ徳があり習い覚えて心の糧とすれば人を高める。しかし、
その道の奥を極めようとするようになると「妻の心」に隙ができるのだと。
静かに微笑みながら云う些かの翳もない、かな女の老をたたんだ顔から、
武家の妻としての生き方のきびしさ、そのきびしい生き方の中で、
さらに峻烈に身を持してきたかな女のこしかた、そして、
人の目にも触れず耳にも伝わらぬだけ、
霜雪をしのいで咲く深山の梅のかぐわしさが感じられるのであった。

〇不断草
舞台米沢。 登野村三郎兵衛が妻、菊枝
菊枝の父は、上杉家三十人頭の仲沢庄太夫といいすでに隠居し長男門十郎に跡目をゆずっていた。
菊枝は、登野村三郎衛門から仲人、蜂屋伊兵衛を通して望まれた縁にて嫁した。
ところが嫁して半年そこそこで良人の言動激しくつらく当たるようになり離縁された菊枝。
実家に戻らぬとの泣きながらの訴えも通らず、実家仲沢家に戻される。
持って帰りし荷の中に、唐苣=不断草の種があり、それがたいそう好きだった、
眼が不自由で勘の悪い姑のことが思い遣られた。
父庄太夫と蜂屋の話、そして
「豆腐をかためるにはにがりが必要だ」と以前お邸の与市様に云っていた良人の言葉から、
良人の態度急変、自分が離縁されたことには仔細ありと菊枝。
良人三郎兵衛は藩内の抗争に加担し、自ら扶持を返上し退身
館山に居るという、登野村の老母のもとへゆく決心をする。
父から勘当されわずかな着替えの包みを持って一人で家を出た。
お秋と名を変え登野村の老母の世話役になる。姑さまは菊枝と気づくことはなく
「お秋どのお秋どの」と気安く呼びかけすることは何でも喜んで肯いてくれた。
撒きつけた唐苣が芽を出した。
ある日食膳にのせると一箸で姑はそれと気づきいたくうれしがった。
「せがれから手紙が来た」と老母。 うろたえる菊枝。。。
その手紙は越前から出されたものだった。そのご場所を変え幾度も便りがきた。
そして今病に伏してると。老母はせがれ三郎兵衛をみとりにゆけという。おっと~

〇藪の蔭
舞台松本。 安倍休之助…二百石あまりのおなんど役
そこに嫁した八百石の大寄合に生まれた妻由紀。
祝言の日、下城の途中大藪の蔭で重傷を負い帰った休之助、
「仕損じた、腹を仕損じた」と切腹しそこねたと云う。
盃こそしてないがこの家の門を入った以上は安倍の嫁と、由紀帰らず。
そして訳を聞かず三日のうちに八十両の金を用意してくれと由紀に頼む。
嫁した際持参した着物道具を売り実家の母に頼んで金を作る。そして、
もともと女には婚家のほかに家はないのだから、そう思いなおし、自分にとっては
生甲斐も希望も、すべてこの家と良人の中にあること、女としてはこれから本当の
生活が始まるのだということを、考えた。
すこしでも家政の足しにと町家に琴の出稽古に出た由紀。
その苦労をわかってくれない姑に、なぜと腹立たしさを覚える。
初冬のある日、瀬沼新十郎と名のる客がおとずれてきた。
藪の蔭に秘められていた良人の真実があきらかになってゆく、
そして由紀は思う「人はこんなにも深い心で生きられるものだろうか」
わたくしのしていることなどどれほどのことでもないではないか、と。
婦道記というより夫道記かな、な物語だった。

〇糸車
信濃の国松代藩につかえる五石二人扶持の軽い侍、依田啓七郎に、
乳離れしてすぐにもらわれてきて育ち、十九になったお高。
その敬七郎、二年前卒中を病んで勤めをひき、寝たり起きたり。
十歳になる弟の松之助が名義だけ家督を継いでいるものの、まだ元服しておらず
五石二人扶持も、今はその半分ほどしか下がらない。
病気の父と幼い弟をかかえての家計はかなり苦しかった。
お高は木綿糸を繰っては生計の足しにしていた。
実の親は、信濃の国松本藩に仕える西村金太夫と妻お梶
はじめ身分軽くたいへん困窮していた時代につぎつぎと子が生まれ、
お高を手放すこととなったが、その後不思議なほどの幸運に恵まれ、
しだいに重く用いられ、数年前には勘定方頭取で五百五十石の身分にまで出世した。
お梶が病とのことで四五日行くことになるが、、、その後の展開如何に。
日本婦道記、どれもすばらしいが、これは泣けた。涙で文字がにじんだ。

〇風鈴
弥生(二十九)、小松(二十五)、津留(二十三)の三姉妹の来し方生き方
父が世を去ったとき弥生十五、小松十一、津留九つ
それより数年前母も亡くなっており何もかもいっぺんに弥生の肩へかかった。
質素な家庭に育った姉妹が今は家禄の違う家に住む。
思うように出世し富貴と安穏が得られたら満足することができるのだろうか。否、
人間の欲望には限度がない。富貴と安穏が得られれば更にその次のものがほしくなる。
たいせつなのは身分の高い低いではない。 人間として生まれてきて、生きたことが、
無駄ではなかった。世の中のためにも少しは役立ち意義があった、
そう自覚して死ぬことができるかどうかが問題なのだ。 生き甲斐とはなんぞや。
貧しい生活をしてると富貴さえあれば生き甲斐があると思いやすいがそれは違う。
女と生まれ妻となるからには、良人や子たちにとってかけがえのない大切な者となること、
それ以上の生き甲斐はないであろう。 これも婦道記というより半夫道記的物語。

〇尾花川
尊王攘夷が攘夷倒幕に向かっていた幕末、預かってた宇都宮藩の青年が偽志士だった。
集まる志士たちを手厚くもてなしていた幸子、
酒をくらい美食を貪っていた志士たち。志士であることは特権ではないことに気がつく幸子、
ある時からその手厚いもてなしが無くなった、、、何故と良人太宰は不思議にそして面白くない。
偽志士がバレて逃げ出す青年志士に十両もやる幸子???
そして、良人が聞く妻幸子からのことば。はっと目覚める良人太宰。

〇桃の井戸
父が江戸詰めの時に生まれた琴が、父が勤役を解かれたのを機に国許に帰る。
そこで出会った長橋のおばあさまが亡くなった。
見目好く生まれついてないこともあり書に親しみ歌を詠んで生きようと思っていた。
が、越後の水に慣れ二年ののち、二人の子を持つ者の後添えにという縁談話しがくる。
琴は、自分の見目形の良くないことと、和歌の本文恵まれているという高ぶった考えから
どの話しにも耳をかさず押し通してきたが、長橋のおばあさま曰く、
「女は良人を持ちこどもを生んで初めて世の中というものがわかり、本当の悲しみや喜びが
どうあるかを知るのです。今のあなたでは格調の正しい歌は詠めても人の心を打つ美しい歌は
作れない」そして「自分のお腹を傷めずに二人も子が持てるのは儲けものですよ」とも。
三年目の冬実子康三郎を生んだ。寒い夜余計に布団をかけてやろうとしてはっと息が詰まった、
武士の子は柔弱に育ててはならぬ。暑いと言って寒いと言って着崩したり着重ねたりしてはならぬ。
自分の腹を痛めていない欣之介、貞二郎にはそうしてきた。わが身痛めし者への本能的な愛。
おばあさまに正直にそれを言うと初めて叱言を言われた。
「武家に生まれた男子はみなお国のために、身命を賭して御奉公しなければならない。
その時まで預かって育て上げるのが役目。 そこには親身も他人もない」と。
琴は思った、
「自分にあるたけのものを良人や子供たちにつぎ込む喜び、良人や子供たちの中で
自分のつぎ込んだものが生きてゆくのを見る喜び、この喜びさえわがものになるなら、
私は幾たびでも女に生まれてきたいと思う」 と。

〇墨丸
両親とも亡くなったお石五歳が鈴木家へひきとられたのは正保三年霜月のことであった。
平之丞(十一歳…一人っ子)の父、惣兵衛の古い友人の子ということで。
お石は色黒くきりょうこそ良くないが明るく汚れのない澄みとおった眸子を持っており、
なにか話すとき聞くときにはこちらをじっと見あげる。その性質がわかるようになり、
自然と友達が増えた。平之丞も愛情に似たものをもつようになる。
だれよりもお石と親しくする松井六弥という少年。
「お黒どの」とか「烏丸」とか綽名されるも「墨丸」を自ら主張した。
※某国民的朝ドラヒロインキャラみたい ^^)
和歌を詠うようになり雅号を「墨丸」に。平之丞自分が選んだ綽名に心傷んだ。
おんなが容貌をそしられるほど辛いものはないだろうと。
鈴木家にはしばしば旅の絵師や書家が来て滞在した。
或る時検校という琴の名手が来て四年あまりも滞在しお石に琴を教えた。
その稀有な才能をほめたが、人に教えるのはムリだとも。
それは、お石の琴は格調が高すぎるとでもいうか、一口に云うとなかなかな耳ではついてゆけないと。
そしてこういう特殊な感覚をもっている者は、よほど注意しないとゆくすえが不幸になりやすいと。
その時、父惣兵衛の顔に現れた憂愁の色は忘れがたいものであった。理由はわからないが、
検校のことばが父の心にある危惧の思いを裏づけたのだ。父はじっと物思いに沈んだ。
平之丞が二十三になった春のこと、松井六弥の催しで観桜の宴が行われた。
そこで「藩主うえもんのすけ様が水戸の御胤である」という話しがでた。
十二年前に江戸屋敷で小出小十郎という者が切腹して死んだ、という話しも。
十人ばかりが琴を披露。お石…十七…はひかなかった。
この頃のお石は人の気づかぬところ眼につかぬところで心がよく生かされていた。
平之丞「お石あれなら鈴木の嫁として恥ずかしくないと思うがどうか」と母に。
父もよかろうと承知したものの、お石は琴で身を立てると。生涯嫁にはいかぬと。
京の検校様の許へゆくと。母怒る。父突然倒れ三日病んで死去した。
父死して、お石の素性がわからないままになった。何処の何某の生まれなのか。
そしてお石は京へ上った。
平之丞二十七歳で松井六弥の妹そでを娶る。平凡ではあるが温かいしずかな結婚生活が始まった。
が、嫁して六年目の秋、三人目の子を身ごもった体で死した。
平之丞三十二歳で藩主世子うえもんのすけ忠春の側がしらに任じられ重く用いられた。
こうして五十歳となった平之丞は藩政の中軸となった。
公務で京へ上った際帰り岡崎へもう三里という所で「八橋の古跡」という名所にいってみたく尋ね行った。
切下げ髪にした中年の婦人となったお石と再会。 お石だった。
そして私は小出小十郎の娘であると。
もし平之丞の妻になって、もしもその素性が知れたならご家名にかかわる大事になるやも、
愛する者の将来に万一のことがあってはならない。妻には決してなれぬそう固く心にきめたのだと。
翡翠の文鎮を生涯のお守りに頂いたのだと。
「昏れてまいりました。久しぶりに下手なお料理さしあげましょう、
そして墨丸と呼ばれたころのことを語り明かしとうございます」 と。
「ずいぶん遠い日のことだ」  縁側の障子も窓のほうも、すでに蒼茫と黄昏の色が濃くなって、
庭の老松にはしきりに風がわたっていた。

〇二十三年
新沼靱負(ゆきえ)三十一歳
・・・会津蒲生家家臣、御蔵奉行に属し、食禄ニ百石あまり槍刀預役を勤める。
亡き父、郷左衛門・・・偏屈に近き古武士的な人物だった。 おかや二十一歳?
一方靱負は、これというぬきんじた才能も無い代わりに、
まじめで謹直なところが上からも下からも買われて、平凡ながら極めて安穏な月日を過ごしてきた。
主家の改易、会津六十万石取潰しとなり、他家へ仕官したりと思い思いに城下を離散した。
が、一部の者はその弟が蒲生の家計を立てている伊予の国松山で生きたいと願うのであった。
靱負もその一人。ひとまず会津城下の郊外に居を移し時節を待つことに。
が、長男臣之助が、続いて妻みぎが亡くなる。残るは乳飲み子次男牧次郎
そのような状況の下、靱負の唯一のたのみは婢のおかやであった。
牧次郎と自分の身の回りの世話をよくしてくれた。
松山に出立する前の日におかやにひまをだした。十五で来て六年めのことであった。
別れてのその足で途中おかやは崖から落ち頭を打ったのか白痴のようになった
唖者になり、しきりに牧次郎を背負いたがり旅に出立せねばという身振り
松山へ連れてゆこうと靱負の思いは決まった。 師走中ごろ松山着。
城下から北東に離れた古代から名高い温泉場道後村に住居を決める。
坐食していてはならぬと収入の道を探す。土産の土焼人形の絵具塗り内職を始める。
それから五年の間靱負は三度も病床に伏し一度は半年も寝たきり、
そのたびおかやが牧次郎の世話に身の回りのことその上内職までしてくてた。
なんと皮肉なことだ。新沼家から嫁に出そうとまで言った者がこうして世話になっている。
こうして多難の月日は九年続いた。
寛永十一年八月、松山藩の改易。会津につづいて松山の改易。すべてが徒労に終わった。
靱負自害しようとするも、おかやの必死の形相に思いとどまる。
そうだ、人にとって大切なのは「どう生きたか」ではなく「どう生きるか」にある。
死んではならない。おかやの苦労を無にしないためにも。
これが彼の運命の分かれ道だった。
あらゆることに終わりがあるように、新沼靱負の不運もようやく終わる時がきたのであった。
改易された蒲生氏の後に隠岐守松平定行が封ぜられてきた。
そして蒲生に再興の望み無き今、当家へお仕えなさってはいかがと。
先方では靱負の松山へ来た目的、
今日までその目的一つを固く守ってきた仔細をよく知っていたのである。
食禄二百石で松平家に仕え、馬廻りとして勤めはじめた。
それからの春秋は誠に平穏。牧次郎も成長し新参者の子としてはかなり稀な殊遇、出世。
靱負は慶安二年五十三歳で死んだ。牧次郎家督を継ぎ、その年の冬祝言。
祝言の夜牧次郎おのれの部屋へおかやを呼び対座。おかや齢四十三歳となっていた。
今までの礼を云うとともに、心に秘めてきた思いをおかやに伝える、
二十三年間の事の真相、おかやの気持ち、明らかに、、、そして。


この記事に対するコメント

この記事に対するコメントの投稿














管理者にだけ表示を許可する


この記事に対するトラックバック
トラックバックURL
→http://shunrin.blog64.fc2.com/tb.php/1264-dff2b298
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)