旅のしおり
プロフィール

Author:シュンちゃん
還暦。思えば遠くに来たもんだ。人の命はいつか必ず果てる。生きる軸足である山のほか、本にしおり挟むよに、趣くまま時折生きし証ここにつづる。齢ゆく者のボケ防止備忘録ブログです。適当におつきあいください。
   since 2008(H20) 8.28 



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カンボジア報告会 ・・・2012.1.8(日)

カンボジア報告会1-120107

山仲間ゆきこが年末年始カンボジアに行って来たというので、その話しを聞きたく昨夜訪ねた。 カンボジアは3年ほど前僕も訪れたことがあり、興味深く話しを聞いた。 写真を見ながらの彼女の話しは説得力があり自分も旅をした様なそんな気になった。 そして70年代以降今だ悲しい歴史と共にある国ですが、同時にすばらしい文化遺産を持つ国であることも再認識しました。

カンボジア報告会4-120107 カンボジア報告会2-120107 カンボジア報告会3-120107

        章ちゃん-120107   章ちゃん-120108
      お父さんの章ちゃんがハモニカを演奏。 翌日町内会で出かけられた。




エヴェレスト街道録-Ⅲ

初なまエベレスト-051229
                目の前にとびこんできた、初めての生エベレスト(標高8848m)

タムセルクの夕景が綺麗だったベンカーの夜が明けた。歩き始めて2日目。今日も快晴。間違っても自分じゃない、メンバーの誰かさんの「日頃の行い、晴れ男晴れ女」に感謝しなきゃ。宿を後にし、チュモア、モンジョと歩き、ジョルサレ・リバーレストランで昼食。酸味の効いたミートスパゲティを頂く。酸味ってとこが東洋人向けなのか、とても美味しくいただけました。シェルパ族と日本人は元々似てるんだけれど、そこの女将さんが、立山・室堂派出所の絹ちゃんに似ていると一盛り上がり~(今振り返るに確かに~!・笑)

ちょうど正午、その“絹ちゃん“ちを後にし、何度か吊橋渡り、今ルート最大の急登に入った。登り切り・・・そして、今山旅で初めてエベレストを見た(ビューポイントの標高3,100m)。生まれて初めて生で世界最高峰を見た。堂々悠々と雪煙上げる姿がとても印象的で、何故か思わず手を合わせてしまった。シェルパ族はチベットからやってきた民族なので、世界的に通じる「エベレスト」やネパールでの呼び名である「サガルマータ」ってのはあまり使わないそうです。中国名である「チョモランマ」を日常使うそうです。

歩を進め、この日の宿泊地、ナムチェバザール(標高3,400m)に着いたのが午後3時20分。今日12/29は、イングリッドの誕生日。離れてると愛おしい。いいとこ見せないともありで、街の電話屋さんまで行き、家に電話を掛けた。家族が「ホントにパパかいな?」と驚いていたのが印象的。娘なぞは、まるで宇宙人から電話が掛ってきたよな驚きぶりで、なかなかママにかわらないし、こちらは周囲に人が居るので困惑したのを憶えている。「恥ずかし楽し、そして亭主元気で留守がいい」、をその電話屋で味わい、離れているほがやさしくなれるのは何故だろう?・・・などと考えながら宿に戻る。ともあれ忘れられないイングリッドの誕生日となりました(向こうは憶えて無いと思うけれど)。

渋ちゃんと、持参してきた日本酒を少し飲り、夕食はヤクのステーキをいただいた。これがまた美味かった。ホッカイロを一枚腰に貼りシュラフに潜り込んだ。温かい。ただ、トイレが外だったのですが、夜中、野犬の大きな遠吠えにおののき、なかなかシュラフから出れずな長い夜でもあった。

朝方、初めて見たエベレストの夢を見た。



       ベンカーをゆくポーターたち-051229          リバーレストランにて-051229

           ナムチェバザールの街並-051229  宿からナムチェの街-051229

           牛も家族みたいな世界-051229  電話かけにいく-051229

 まずは乾杯(^^)-051229  ゆうげは楽し-051229  渋ちゃんまちこ-051229

                     頼りになるガイドたちと-051229



・・・ つ づ く 予 定 ・・・



明日から弊社も人並みに盆休みに入ります。
脳天からすっきり、さわやか~な、涼しいとこに行きたいな。



エヴェレスト街道録 -Ⅱ

マニ石-051228
                                          マニ石とシェルパフラッグ

 ルクラ空港-051228  マニ車のある建物-051228  玄関先の少女-051228
  ルクラ空港             遠くにヌンプル峰         人形を抱いた少女

 マニ石をゆく-051228  シェルパの家-051228  耕作の様子-051228
  マニ石は左側通行        シェルパの家           牛による農耕の様子

          パクディンでランチ-051228  火と遊ぶ子供達-051228
           パクディンでランチ        楽しそうに火と遊ぶ子どもたち

     夕食のカレー-051228      ヒマラヤゲストハウス夕食-051228        ベンカーよりタムセルク-051228
      美味しかったカレー           ベンカーで夕食         タムセルク峰  

ネパール2日目。朝5時半にカトマンズ(標高1300m)のホテルを出て、ktm.空港を7:10にフライト。トレッキング基地であるルクラ(標高2800m)に7:40着。真っ青な空に、平和の象徴ハト形の白き雪を抱いた鋭鋒ヌンプルが僕らを迎えてくれた。テンジンの義父が経営するパラライスホテルで、パンケーキメインな朝食をいただき・・・ゆで卵にバナナもあり・・・午前9時エヴェレスト街道トレッキングは始まった。

歩いてて、この歳んなって初めて見るもの多く、心すぐ奪われる。例えば、牛が畑耕している風景など、自分が子供の頃でも日本ではすでに見たことはなかった。まして、道で何頭もの牛とすれ違うなんてことはありませんでしたが、ここでは日常の風景。シェルパ族が各家に掲げてる彼ら特有の旗も目にしました。敬虔なるチベット仏教徒であるシェルパ族らしく、行く所々にマニ石がありました(左側通行です)。 そして、どちらかというと伏し目がち沈みがちな大人たちの目に対し、子供たちはキラキラ目輝かせ遊びに夢中。何にでも興味津々、かわいい。

そうこうしてる内に、当初予定してた本日の宿泊地パクディン(標高2610m)に着いたのですが、時はまだ昼過ぎ。皆の調子も良く、先のベンカー(標高2700m)・ヒマラヤゲストハウスがこの日の宿となりました。後に思ったが、ホテル内にトイレがある事は、この街道にあってはかなりポイントが高い。そしてここのご主人は、ヨーロッパの山小屋経験があるらしく、料理の腕も確かで、夕食にいただいたカレーはとても美味しかった。チョモランマならぬエヴェレストビールもグッドだった。

宿から、タムセルク(標高6608m)が青空に映え、輝いていたのが印象的だった、トレッキング初日の夕暮れでした。


・・・ つ づ く



エヴェレスト街道録 -Ⅰ

シャンボチェの丘から-051230
 シャンボチェの丘(標高3830m?)から、エヴェレスト(8848m)そしてローツェ(8516m) 2005.12.30

2005年に出かけたネパール、ヒマラヤ・エヴェレスト街道山行を、不連続になるやもですが、しばらくつづってみようと思います。

 フライト待ちに-051227  機内食-051227  記念夕食会の様子-051227
            関空にて             機内食(^^)                夕食会

「やっとかっと隊」と命名された一行、隊員6名、-女性3名av.40才、男性av.57才(当時)-は、家事や残してきた家族、降り止まぬ大雪のことなどを気にしながら、前日午後5時半関空に集合。日本時間27日午前1時40分、機中の人となった。

バンコクトランジットの後、再びカトマンズへフライト。その頃には日本の事などすっかり忘れ、機内食に酔いしれた(笑) ナンが美味しかった。隣りになったカメちゃんと妙にテンション上がりはしゃいだこと思い出す。

カトマンズ空港に着いたのが、現地時間で午後1時。ガイドのアンツェリンとテンジンが迎えに来ており、ホテル・ラディソンへ。 一服し、翌日からの打合せをし、その夜は彼らの家族交え日本料理屋で夕食会。個人的には“とろろ”が極美味だった。隣りに座っていたアンツェリンが食べないので、ダブルでいただいた。何とか云うお酒も美味しかった。

テンジンの奥さんダッティ・シェルパは、若かりし頃(あの時も十分若かったが)立山に来てた事があるとの事。よく話を聞くと子育てが一段落したので、次の夏には来日する予定だとも言っていた。次女のヤンジー(当時5才)がワイルドでと~ってもかわいく、おじさん一目ぼれ~ 抱っこさせてもらった。

そんなこんなで、ネパールの第一夜は静かに流れていったのでした。

・・・ つ づ く



広島行 ・・・見聞録後編
  
  大鳥居-517ta
                                         厳島神社 大鳥居


寺ちゃんのお祝いから一夜明け、見聞後半です。言わずと知れた世界遺産日本三景、安芸の宮島(厳島)へです。フェリーなんて記憶に無いほど久しぶり。また宮島は雑誌とかテレビでは見たことあったのですが、足を運んだのは初めて。まずは人(観光客)の多さに驚きました。日曜ということと、千円高速の影響がきっと出てるのでしょう。そして、結婚披露宴の翌日で何かと忙しいだろうに、寺ちゃんが一日僕らをガイドしてくれました。ゆったり大船に乗った気分で見聞できたのであります。

フェリー乗場-700   三景碑-400ta
観光地だなぁ-1120   鹿に懐かしいポスト-700   じっきー&寺ちゃん-550ta
厳島の鹿は神の使いとして神聖視されていたのですが、第二次世界大戦後GHQの兵士のハンティングの対象となり、絶滅。現在島にいる鹿は、後に奈良公園から移入されたものらしい。と、じっきーと寺ちゃんが大鳥居を後ろにパフォーマンス。じっきー寺ちゃん揃い踏み相乗効果か、打ち合わせなしでこれなんだから、スゴイ!そしてこれよこれ!自分が知ってる寺ちゃんは。寺ちゃんはやっぱこうじゃなきゃねー。疲れてるだろうに、彼のこんなノリ、嬉しかった。


厳島神社詣でをすませ、弥山(みせん・標高535m)へロープウェイで向かいました。ロープウェイ終点まででしたので、今回ぼくらが到った最高点は標高437m位でしょうか。。。これもまぁ山行記録と言えば言ったになりますか。
ロープウェイ-550ta   弥山-765*966   瀬戸内海-600ta 
黒部では、能登半島の部分もあるが、外海の方角見れば海の向こうに島があるってことは無く、先は延々海が続き、行きつくところに水平線が見えるなのだが、ここ瀬戸内では、アクエリ・アクエリじゃなく、ぽかりぽかりと(マジ、ポカリ!と来そう) 島があちこちに浮かんでいる。穏やかな海原も手伝い、ちょっと不思議な感覚に陥った。  

     お猿もいるそう-500ta   じっきー&てつや-550ta   さやかじっきーてつや寺ちゃん-550ta
      この日は見かけなかったが、弥山にはお猿もいるそうです
      あっ、この人たちはお猿ではありません(当たり前、失敬!)
      それにしてもこの若い衆、いい顔してます、
      山小屋で短い期間であっても、寝食、苦労共にした濃ゆい仲間ってのは、
      離れて住み、時を経ても、あの思い出の頃にすぐ戻れるんだ、とそう思った。


山から下りて来て、じっきーが何やらもぞもぞとしゃべります。夕方6時までに東京に戻らなければいけないと言う様なことです。この辺のとこはbanちゃんが上手く表現されてますのでそちらをどうぞ。ともあれ落着し、前見ると、潮が引き大鳥居の近くまで行けるじゃないですか。すごくラッキーでした。そして目の前にする鳥居の迫力はすごかった。よー海ん中にこんなもん造ったもんじゃわいと。特に前から見て右真ん中の大木は大迫力、ぶっとい。感動しました。
 潮が引いた-1120     迫力の大鳥居-550ta


で、気がつくと腹減った~
いただいたもの
 ・牡蠣     大好きな「生」と、焼きの2種
 ・紅葉饅頭  普通、生、揚げ3種
 ・にぎり天   各種
 ・ぬれおかき 自然薯入り
 ・とろろ蕎麦
 ・冷酒
 ・忘れてるけれど、きっと他にも何か食べてるでしょう。
生牡蠣①-700   生牡蠣②-500ta   焼きがきで一杯-1120
  取分け好きなのが、生牡蠣                  自由時間すぐ歩き疲れたので
               でかくて、ぷるんぷるん!         一人、焼きがきで一杯飲る

揚げもみじ-750   にぎり天-750   帰り際にまた-350ta
もみじ饅頭では「揚げ」が美味かった  にぎり天は           帰路につく直前
ただ、揚げるので土産には適さない    宮島のファーストフードだ     最後やはり、カキだった。



こうして、なかなか行けない広島行終え、家路についた。
この旅で、寺ちゃんの人生の門出・旅立ちのお披露目に立ち会うことができたと共に
彼の生まれ故郷広島という町の、ほんの表面だけだったが、見ることが叶った。
人生の中で寺ちゃんという人に出会えたこと、今回同行した皆さんに感謝申し上げ
広島行、この辺でペンを置くことにします。みんな、さんきゅう。



広島行 ・・・見聞録前編
  
  資料館①-568ta
                              広島平和記念資料館 2009/11/28(土)
                    この子らの為にも、人は同じ過ちを繰り返してはならない


闇の中banちゃんと交互に運転しながら千円高速車走らせ、岡山県を抜ける頃に夜は明けきった。ほぼ初めて見る山陽の町並みに目をやりながらの広島入りであった。サラリーマンだった頃会社の社員旅行ってやつで歴史感じる所には結構行ってたと思うし、バスガイドさんの説明も一通り聞いてるだろうに、興味が無かったのか、ほとんど覚えていない。見てても見えてなかったわけね。
だが、今はちと違う。諸国行脚、東西見聞、とても楽しみです。


まずは、平和記念公園を訪ねました。
資料館で、日本の悲惨な近代史をまざまざと見せつけられる。
沖縄やカンボジアを訪れた時同様、ことばは出ない
ことばでは語れない、ことばを超えた、そんな大きな何かが自分の心に広がった。
「これを繰り返してはいけない」と、ただただ、そう思った。
参考WEB : 平和記念資料館
資料館②-1120 

公園①-550ta   公園②-550ta   公園③-550ta
                                 今年の北アの山を歩くより
                                 ・・・広島のはすてきだった

続いて、広島城を見学
気持ちのいい行楽日和に、ひらばの散歩は過去に記憶がない位
陽だまりを歩く、気持ち良かった。見学と言っても、中には入っていない "^_^"
  広島城-550ta   y&b夫妻-550ta
                    ムムッどっちが奥様


そして。。。いよいよおたのちみ・・・お昼は「広島風お好み焼き」へ
麺を使うのが、自分が見慣れているのとの最大の違い。そして見た目ずいぶんぶっとい
絵的には「手の込んだ具沢山な焼きそばやにかーこれ~」なわけ
まぁ文字通り“お好み焼き”と付くならば、それはそれで文句はつけられないのだが、
どう考えても、自分的には、焼きそば寄りなお好み焼きなわけよ・・・
気になる。長州の出のわたすげさんが言われる様に
「広島焼き」ってネーミングのほがぴったしだと、おらも思います。
で、味は、薄味ながら上品、均一に良くゆきわたっていた。自分にはかなり美味しかった。
  お好み①-700   お好み②-500ta   お好み③-500ta 

             お好み④-500ta   お好み⑤-500ta   お好み⑥-500ta

広島風、おいらの馴染みのある混ぜ混ぜしてから焼くのではなく、ひとつひとつ具を足してゆく調理法
そして、客が自分で作るのではなく、お店の方が目の前でばっちり、メイキングである
また、その様な作り方から、出来上がりまでかなり時間が掛かる・・・今回注文から25分位
ならば、観光客相手だし、パフォーマンス交えもっと笑顔でショーよろしく楽しませて欲しいものだ。
↑笑顔作るの下手な富山県人が言うのも、おかしいが。
客の回転決して良くないことから、まず大阪では根づかない商売じゃないか、とも思った。
んまかったがに、何ぶつぶつうるさいこと書いとらよだ
・・・まったくです。広島の皆さん、ごめんなさい。



のち、商店街ぶらり散歩、つーかショッピング~して、宿へチェックイン
15分の仮眠を取り、寺ちゃんの披露宴会場へ向かった。

・・・見聞録後編へつづく





カンボジアレポ-5 完結編
 
  演奏-430
                ホテルカンボジアーナで笑顔のとてもすてきな娘に出会った

今回の旅でも、いろいろなものことと出会った
「ウドン山」という山にも登った。とても暑かったけれど
山と聞いて無意識に反応、いつもは後方歩いてたのに
気がついたら一番先に登りつめてる自分がいたのには驚いた
どーしたん??? と、みんなに冷やかされた。

最後の日、クラタ・ペッパーに出かけました
かつて、世界No.1品質を誇っていたこの国の胡椒
ポル・ポト政権下で壊滅し、誰も取り組まないので、日本人が始めたとのこと
少女達が作業にあたっていた。
kurata ペパー-430 kurata店内-500
kurata工場-750 自慢の胡椒-750

またまた街中の様子です
日本では横の車間というのは、どうだろう・・・
普通なら1m、近寄っても50cm位でしょう
それ以上接近したら何かありって思います。
でもこの国の横の車間距離は普通で、30-20cm
10cm以下なんてのもざらで、みんな上手くすり抜けてゆきます。そして
レクサスだらけのストリート、ハマーなんてのもちょくちょく見かけました。
街の様子①-750 街の様子②-750

プノンペン最後の夜、川涼みに出ました
心地良い川風にあたりながら、今回の活動を振り返りました。
川涼み-750


今回訪れたカンボジアという国、経済は中国人を中心に外国資本に支配されてしまっており、富む人々は一部いるが、まだまだ大衆の貧しい国であった。そして忘れることのできない過去の凄惨な歴史。「もう戦後ではない」と言われて久しい日本だが、この国のそれはまだ終わっていない。

貧しいがみな必死に生きている。そこに広がる、生命の躍動感、その生命力、そして家族の絆つながり等々、ストレートに五感で感じることのできる国であった。韓国やタイ、欧米も良いが、アジアの仲間カンボジア、みなさんも一度訪れてみてはいかがでしょう。



カンボジアレポ-4
  
  孤児院で遊んふたり-430
                             紙飛行機を飛ばし一緒に遊んだふたり

少し物が腐りかけた様な臭いに香辛料と酸味がちょっぴりブレンドされた乾いた空気が鼻を刺すプノンペンの街中から、車を走らせ1時間半、そこはもうすっかりのんびりした田舎。孤児院を訪れました。以下写真にて報告です。

差し入れのお昼のサンドイッチのパンを切る包丁を忘れたと言うので途中で買い物です
横には、ミシンをふむ女性の店がありました。「衣」というのはこの国では大きな産業のようである。
途中で買い物-750 ミシンをふむ女-750


孤児院に到着しました。
こども達が並んで僕らを迎えてくれます。ちょっと足長おじさんになった気分
暮らしに必要なさまざまな物資をトラック一杯届けました。まずは医薬品を渡します。
50㌔のコメ袋も子供らが格納してくれます。お菓子をもらったこども達心中嬉しそうでした。
しかし、たくさんお菓子をもらっても、託児所のこどもらと違い、この子らに帰る家はない。
孤児院に到着-750 医薬品を渡す-750
コメを運ぶ少年-750 お菓子を手にしたこども達-750


今日のみんなのランチ、サンドイッチは僕らの差し入れ
現地で女性が中心になり作ってくれました。
っで、ぼくらも昼食
同行のf氏は体調不良で今日は「赤いたぬき」
里子で長年支援してきたs女史がそっとお湯を入れ気遣っていた
今はフランス大使館に勤務する彼女もf氏の支援がなければ今は無い
カンボジア語はもちろん、英語、日本語、フランス語の4カ国語が使える才女になった
もちろん、フランス語が一番上手ペラペラだと言っていた
この国では、「学ぶ」と言うことが貧困から抜け出す大きな手段なのだ。
今日のランチ f氏とs女史
勉強したくても、できない事情の広がるカンボジア
勉強したくなくても、しろと言われる日本
勉強する場が広がっているのに、勉強外の事に熱中してる日本のこども達
半世紀後、日本に明るい未来はないと思う。

こどもたちとの交流
今回は、なわとび、紙飛行機、折り紙を持ち込みました
加えて、ミュージックに合わせ、ダンスをしました
ほとんどの子はダンスが大好きで踊りつづけます
ダンス上手な少年の右足は義足である。でも明るい。ほっとした。
そしてこども達は炎天下の元疲れ知らず、こちらが参りました(*^_^*)
今日も盛り上げる隊員 ダンス上手な少年 
なわとび 隊員もダンス
折り紙
どんなに「一緒に遊ぼう」といってもみんなとは遊ばない子もいた
人それぞれだから、それでいいじゃんって思うのが日本だが、
こんな小さいのに、きっと過去にとんでもない地獄を見てしまったのだろう。
日本じゃ「トラウマ」なんてことばを乱用するが、ここでは誰もがトラウマを持つのだ、
"ことば遊び"では済まされない、心の闇の現実がそこに見て取れた。
トップの写真のふたりもそうだった
そして、この少女の笑顔、ついに見ることはなかった
心の闇は今なお、外に向けて開くことがないのだ。
遊んでて、もうことばが出なかった
ただただ、ただ、抱きしめてやりたい、そんな気持ちになった。


家族がいるので孤児ではないのだろうが、隣の家の少女がこちらをじっと見ていた。
孤児院にはJIRAC代表佐々氏が来られたときの写真があった。
孤児院にカモの親子が歩いていた。カモも親と暮らすのに、
ほとんどが生後親に捨てられたこのこども達。人間って高等生物なのだろうか・・・・
これを見た時、思わず複雑な気持ちに時間が止まった。
となりのこ 
佐々氏 カモの親子


カンボジアの復興に長く係わってこられたn氏には特別な想いがあるのだろう
僕らの引率として、日頃は淡々とクールな語り口の氏。この夜は、熱く感じた。
n氏


この国に今生まれなければならなかった「定め、運命」がどうだこうだと議論しても、彼らの腹は満たされない。何も解決しない。中には国の現況から幼い頃から売春婦として生き、赤ちゃんができても自分が食べるために育てることもできず、このような孤児院にこどもが来るのだと言う現実。ホテル滞在中にも外国人が幼い少女を連れて歩く姿を目にした。しかしこの様な事を繰り返していてはいけないのだ。

そして、支援救援活動において大切なのは、かわいそうだとただ金や物を与え放置するのではなく・・・心がありお金や物を届ける事は何もしないよりすばらしい事ですが、出来得るならば現地に赴き彼らが本当に自立して生きてゆけるように、時にはきびしいことばも投げかけ、そうしながら自立に向け一定期間サポートし続けること。そういった「自立支援」が大切なのだ。そして突き詰めれば人と人とのふれあい、継続的なつながりが大切なのではとこの孤児院を訪れ、そう思った。



カンボジアレポ-3
 
  託児所のみんな-430
                  JCW託児所のみんな・・・こどもの笑顔は万国共通ピュア

この日の朝はNHKの朝ドラ「だんだん」から始まった。えーーーっであるが、現地時間朝6時15分から毎日やっていました。まてよ、ってことは時差2時間だから日本のアナログ放送時間8時15分と全くおんなじ時にやってるんやぁ。そして政治経済を始め日本の状況は刻々と入ってくる。全く世界も狭くなったものです。分からないのはじぶんちがどーなってるかぐらい。それは便りがないのが無事な証拠と言うことで変に安心。

さて、身支度朝食荷の整理を済ませ、昨日悲惨な歴史に触れてきたのでまずはお寺へお清めに行きました。この国はヒンドゥー教の次が仏教だそうです。木陰で気持ちよく涼んでいると象が現れました。商売らしいので勇気ある隊員二名が乗ってくれました。見た目よりかなり高くて揺れたものと推察。その後王宮を見学に行きました。
象に乗る-750
僧侶がゆく-750

昼食をとった食堂の前で少年が何か売りながら靴磨きもなりわいとしていた
一足1000リエルらしい。4000リエル≒1ドル、つまり約25円
表情の明るい子で、それだけで心にぬくもりを覚えた。
靴磨きの少年-750

JCW託児所に到着。この託児所はJIRACと、JIRAC事務局現地スタッフであり
ご両親がポル・ポトにより殺害され、ご本人も当時刑務所に入れられたことが
あるという、今回ガイド役を務めて下さったHII女史の資金で運営されている。
みんな、いつもは昼寝の時間だったからなのか、少し待ちくたびれたからなのか
最初はあまり元気がなかった
託児所のみんな-750

参加隊員によるパフォーマンス
芸は身を助く。すばらしい時間でした。こども達も喜んでいました。
ぱふぉ①-750
ぱふぉ②-500ぱふぉ③-500
若い隊員二人はこの後僕らと日本には帰国せず
一人はタイへ、もひとりはインド方面に旅を続けると言っていた
ふたりとも生きる力というか人間性人間力豊かな若者だった。


お菓子はまだぁ~
そうだね、はやく分けたげなきゃねー
まだかなぁ~-500


トヨタ車を中心に高級車が走るメインストリートからたった5分の
このスラム街に暮らすこの子供たちには、お菓子もぜいたく品
無邪気な笑顔は少なかったが、袋一杯になるとやはりうれしそうだった
帰って、兄弟姉妹始め家族と分けて食べるそうで、一目散に家に帰って行った
日本ではもう見ることのできない、家族のつながり、かかわり方だと思った。
がんばれよ-750


過去の凄惨な歴史から、教育者がまだ十分揃っていないこの国では、自国の文字さえ読めない書けない子供がまだ多いと聞く。ゆえに「地雷危険入るな!」の看板が読めず危険地帯に入り込み事故に会う子が今も絶えないのです。しっかり学んで、りっぱなカンボジア人になり、いい国を作っていってください。。。。。子供たちの顔を見ながらそんな気持ちでお菓子を渡した。



カンボジアレポ-2
  
  お菓子届く-430
                マーケットで調達してきたこどもたちへのお菓子が
                                その日の内に届いた(これは一部)

幹線道路沿いに位置するホテルで、行き交うバイク・車の、騒がしいと言うよりけたたましいという表現の方がぴたりとくるクラクションの喧騒に目が覚める。朝5時半であった。5時半この国はすでに「起きている」のだ。泊まる場所にもよるのだろうが、この旅には耳栓が必要だと思った。その後しばらく布団の中でまどろみ、ゆっくり体を起こした。

さて、この国を語るにどうしても避けて通れないのが、クメール・ルージュ時代('75.4~'79.1)ポル・ポト派による大量虐殺だろう。さまざまな説がありますが、当時800万人と言われた全国民の内、ポル・ポト時代に170~200万人が、殺害されたり、病気、飢え、強制労働などにより命を落としたと言われている。全人口の実に20-25%の命を結果抹殺したのです。そして、ポル・ポトは特に知識人を選んで手に掛けました。スターリンや金日成が他国の国家機能を喪失させようと有能な人材を虐殺したのとは異なり、すでに自分の権力下にある自国民、自分と同じ民族を虐殺したのです。異常そのものです。その目的は、伝統的な文化を頭脳に蓄えている知識人を抹殺することによって、伝統的文化を破壊しようとしたもの、そうする事により原始共産主義の実現を目指し、その為に手段を選ばなかったのである。

・トゥールスレン刑務所博物館
  反革命分子と見なされた人々が
  捕らえられ、拷問を受け、虐殺された場所
  決して忘れてはいけないとの、想い願いからだろう
  忠実に保存されていた。
トゥ-スレン-750

・キリングフィールド
  プノンペンの南西約15kmにあった処刑場
  処刑後の遺体は掘られた穴の中に放り込まれた
  その穴がそのままいくつも残っていました
  土の中に眠る遺骨もまだ多いそうですが
  慰霊塔には約9000体の頭蓋骨(遺骨)が納められていた。
キリングフィールド-500

わずか30年前、このようなことがこの地球上で行われていたのです。ベトナム戦争とポル・ポト政権発足は切り離せない部分もある様ですが、間違いなく言えるのは結果として時の権力者の思想とその手法が、恐ろしい結果を生んだのです。その残忍さに、目を覆いたくなる所・場面多々ありましたが、人類の歩んだ歴史事実としてきちんと見ておかなければいけないと思い、がんばって、見ました。見学中、気分が悪くなった霊感の強い同行者もおられました。


マーケットに買出しに出かけました
医薬品や衣料は日本から運び入れてますので
今回訪れる、私設託児所と孤児院のこども達へのお菓子の買出しです。
今回初めて人込みへ分け入ったのですが
市場に物はあふれていました。その圧倒的な量には、少し驚きました。
そして、現地の人々の習慣、心理状況が読めない世界なので
マーケットではとてもカメラ向ける勇気がありません。なので、往来の様子
基本右側通行。バイク、車、自転車、歩行者が行きます
最もポピュラーな乗り物はバイクです。原付~125ccが主流
2人乗り3人乗りは常識。4人5人乗ってるのも見ました。
信号は少なく、思い思いに進みます。ほとんどストップすることがありません
こちらが「一旦止まる」ということは、相手の「自分の動態予測を狂わせること」
とうとうと流れる大動脈も、斜めに静かに渡り始めれば、ちゃ~んと向うが減速してくれるのです。
往来①
往来②
往来③


この日見学した刑務所跡と処刑場跡はとても刺激が強く、脳裏から離れず
怖くて怖くて・・・この夜は、同行の広島のWさん沖縄のAさんの3人で一杯飲り、眠りにつきました。
 ↑ツイン仕様の部屋を今回気を利かせていただき個室使用(オラふたりのほが良かったのに)
   なので静寂音の中すみっこから誰かにじっと見られてるよな
   そんな恐怖に包まれた。あーちびりそ~ はよ朝こんかなぁーって。



カンボジアレポ-1
 
  インチョン空港-430
                                     ソウル インチョン国際空港

JIRAC(日本国際救援行動委員会)第23次カンボジア救援活動に参加し、帰国しました。
JIRAC・ジラクとは、ボランティア団体のひとつですが、単にお金を支援するに止まらず、自らが現地に赴き支援することを掲げ大切にする組織。設立者は富山に縁のある佐々成政が祖先と自ら言われ、警察官僚時代、72年浅間山荘事件、73年金大中事件そして70年代の一連の日航機ハイジャック事件処理の指揮を取った佐々敦行氏その人である。歯に物着せぬ発言には賛否があろうが、「危機管理」ということばを創った、世紀末良くマスコミに登場された人である。今回は彼の横で事務を執る側近中の側近の方が参加されていた。 
参考 佐々事務所HP
 
さて、話は戻り、初日は黒部から列車2度乗り継ぎ関空へ。関空集合メンバー顔合わせの後フライト
ソウルトランジットにて現地入り。私の場合は家を出て20時間かけてのカンボジア到着となりました。

プノンペン空港に降り立つと、気温の高さと共にすぐに海外の香りにおいが出向かえてくれた。それはことばにするとこうだとかor頭で論理的に理解するという種類のものではなく、降り立ったその瞬間に感覚五感が即座に異国を感じとってくれるものなのだ。「アジアのにおい」・・・久しぶりに嗅いだ。3年前のネパールカトマンズとはちょっと違うが、体の深い所に仕舞ってあったものが蘇ってきて好き嫌いともあれ懐かしく思った。そして今カンボジアは夏。雨季に入る直前の4月が最も暑いらしいものの、ここの所取り分け暑い日が続いており、最高気温は35℃を超える。出立前日はスキーをしていたのに、今は「クーラー大のお友達世界」に自分がいることをとても不思議に思った。

荷を運ぶ道具として山屋としてはやはり「ザック」が一番。いつものスタイルがいい。何よりも心の安定も得られ落ち着いて良いのである。今回プノンペン市内のホテルを基点としての活動だったので、準備の時点からさほどの荷にはならなかったのですが、ゆったり70㍑タイプを使用。サブザックも忘れなかった。しかしポーターに大きな荷を預け高地山岳帯を行くネパール山の旅と違い、人込みの中でパスポートや現金の管理を要求されるというシーンの多い今回、サブザックより、大きめのウェストポーチが理に適っていたと少し反省。餅は餅屋、何度も参加されてる先輩方は心得ておられた。

では、おいおいと今回の様子報告です。


プノンペン国際空港に到着
現地時間 2/23(月)22:50 (時差 -2時間)
プンンペン空港-750

救援物資 ・・・ 医薬品や衣料などが入っています
救援物資-750

持ち込んだ物資をトラックに積み込みます
物資積込-750

では、基地となるホテルへ向かいましょう
宿へ-750


宿に入りクーラーつけ一息入れる
そして初めて訪れた国カンボジアのストリートを部屋の窓から見る
暑い国だからであろうか、午前0時を過ぎているにも係わらず、多くの人が行き交っていた

救援活動メンバーとして日本からやってきた僕から、今この国は見えるが
僕の日本という国、ストリートの現地の人々の多くは、一生見ることがないのではないだろうか・・・
初日の夜、そんなこと思いながら、静かに頭を柔らかな枕に沈めた。